やる気があるときにめんどくさいことを整理しておく重要性

倉下忠憲さんの「すべてはノートからはじまる」にこんな一節がある。

特に意欲が高まっている序盤であればあるほど、実行に移したい気持ちが強まり、ノートなんて書いていられるかという気持ちが強まります。

まさに今アプリづくりでその問題に直面している。

Vue.jsという自分にとっては新しいフレームワークを使い、Atomic Designなる耳障りのよい設計技法を取り入れながら、最終構想を頭の中に置きながら徐々に具体化していったアプリケーションだけど、高々最終更新から3か月たって覗いてみたら、もう全くわからないではないか!また、あの頃は自信満々に書いていた書き方も、今見ると稚拙に見えてしまう...

それは、過去の自分に正しく突っ込みが入れられるという意味で、自分が成長したという風にも言えるのだけれども、成長しただけでコードが直るかといわれるとそんなわけはなく。結局、未熟なコード(当時の最適解は大抵今の最低限である)といくつかのわかりにくいコメント(過去の自分は得てして今の自分には理解できないものだ)しか残っておらず、再構築や修正は困難を極めるのであった。

つまり、今の自分のやる気では、自分の生み出したソフトウェアに対してノートを書きはじめることすらできないのである。

では、アプリを作り始めた時の自分にその設計思想をノートに記すだけの気持ちがあるかというと、それは冒頭の引用の通り全くないといっても過言ではない。

そんな怠惰な僕らはどうすればいいのか

それも倉下さんの本に何度も出てきているが、ノートである。ノートに記せないなら、 ノートを作るだけでもいいではないか。

倉下さんは本の中でノートというものの定義をかなり拡張し、全ての記述物≒ノート、と定義づけているが、「ノートを作るだけ」というのはアナログノートではかなりハードルが高い。そのハードルの高さを見込んでか、冒頭でノートに関して「不真面目に」使うことを提唱しているが、さすがにいくら不真面目にと言われても物理的なノートの最初のページだけ使ってあとは使わないという事象や、一つのノートに(本当の意味でのじゆうちょうのごとく)複数テーマを盛り込んで記述するのは精神的ハードルが高い。

その点、デジタルノートはその心理的ハードルが低い。白紙ページはなく、いくら増やしても物理的に場所は取らず、あとで修正や検索もしやすい。

そういう意味で、「ただノートを作るだけ」という行為がとてもしやすい。

始めた時点で終わりまで完走できる保証はない

ノートを作ったら、のちの整理がいるのではないか、と考えたけれども、そもそも始めたことを終わりまで実行し、完走しきる保証はない。自分の場合は始めたことの少なくとも50%は続かない(控えめかもしれない)。というより、頭に浮かんだ時点でスタートとするならばその90%以上は消え去る運命にあるだろう。

ただし、その消え去った出来事も数年後に花咲く可能性はあるわけだし、その時点で、表紙に「〇〇ノート」があるのとないのでは障壁が段違いである。過去自分が考えたことであり、少しでもその決定の断片が見えれば、今回の思考にも生かせるわけである。

そういう意味で、たとえ完走できる保証がなくともノートは作っておくべきだ、と思うわけだが、思いつくたびに白紙のノートを買っていたのでは金もスペースも書きこむ鉛筆ももたないだろう。そこで、デジタルノートでまず項目を作って書き出しておくことが重要なのだ。むしろ、完走できる予定がなければないほど、最初のノート書き込みは非常に大きい(主語がでかい)

短くても書くこと

ということで、デジタルノートが使える今、物理的なノートに対する成約はなくなり、明日終わるかもしれない人生をちゃくちゃくと記すこともできます。長さに制約はないですが、(本人が整理整頓を気にしなければ)(私の小学校時代は返事はいいけど整理整頓ができない、でした)、高々数10文字でおわるでしょう。

まとまりないですが、まず書く→そこから育てる、が重要なんですかね。